鉄道関連フォト Photos

 基本的に私は「乗り鉄」であって「撮り鉄」ではないのだが、見た目の光景の記録という意味でカメラを携行し写真を撮っている。列車、駅舎もあれば自然景観、街並みもある。ここでは30年以上の鉄旅の中から廃止等でもう見られなくなった光景、ややマニアックな画、今でも見ることができる絶景などを厳選して紹介します。

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富山駅富山港線ホーム(1982.3.6)
かつて富山駅の外れにあった富山港線のホーム。直流電車の外観は京浜東北線か阪和線のような青電車だが、車内の床は板張りであるなど古い。3年後に再び富山港線を訪ねたときは北陸本線の交直両用電車に置き換えられていた。 
弥彦駅(1984.3.25)
架線は張られているがまだ電車に切り替えられておらず、珍しい架線下DCの画。
越後長沢駅(1984.3.25)
電化開業から取り残された弥彦線の反対側の終着駅。 時は折しも近隣の赤谷線・魚沼線の廃止直前ではあったもののこの駅まで足を伸ばす鉄道ファンは少なく、本来の終着駅の姿を見せていた。
北陸本線 奥琵琶湖(1984.8.10)
上り方向近江塩津駅を過ぎた地点。やや高い位置から琵琶湖の北岸が見える絶景。幼い頃の汽車旅で数少ない記憶に残った車窓の1つがこの地点。
高山本線 神通峡(1984.8.22)
富山から乗ると笹津駅を過ぎて神通川を渡るところから神通峡谷の景色が目に入る。猪谷から分かれていた神岡線がその車窓の続きを見せてくれていた。でも並行する国道41号線からの眺めの方がさらによい。
勝田線貨物支線(1985.3.14)
志免駅に進入する直前に寄り添ってくる貨物引き込み線。香椎線酒殿駅とは線路がつながっていた。かなり昔、博多発着の特急列車が座席固定式であるため方向転換でこの線路を通っていたというのは興味深い話。
鶴見線 武蔵白石駅(1985.3.30)
大川支線に1両ぽっちの古びた旧型電車が走っていた頃。後に引退して電車が置き換えられると乗り換え用のホームが邪魔になり撤去、この駅からの乗換が出来なくなり、なんと隣の安善駅から乗り継ぐことになったとか。
和田岬支線 客車(1985.8.22)
主たる利用者は和田岬駅近くにある造船所の従業員。1区間のみ、朝夕だけの運行、10分にも満たない乗車時間のため車内は5,6人分の座席、吊り革、手すり以外何もない。究極の通勤型列車だ。車両はその後気動車を経て電車に置き換えられた。
立野駅(1986.3.10)
南阿蘇高原鉄道が分岐、またスイッチバックがある駅で知られるが、駅の構造も風変りだった。列車を降りて駅を出るときは、構内の踏切を渡り坂を上って駅舎を通過しなければならなかった。だが訪ねた直後に線路をまたぐ階段が設置されたし、高台にあった駅舎も後に撤去されている(構内に移動)。
飾磨港駅(1986.3.12)
1日2回しか列車がやってこない播但線の支線の終点。さぞ貧弱な駅かと思いきや駅構内には5,6本の側線があった。きっとかつては貨物輸送で賑わっていたのだろう。そういえば路線の途中に貨物支線が枝分かれしていた。旅客のみでも駅員がちゃんと配置され切符も売られていた。
国鉄黒石駅跡(1986.8.29)
国鉄再建法の第1次廃止対象線に指定された黒石線。弘南鉄道に経営移管されることになり、終着近くで並走する弘南鉄道弘南線に吸収、結果黒石駅は廃止となった。廃止2年後の姿はご覧の通り。現役当時ある報道レポートで、弘南黒石駅と優劣対比されていた。
砂川駅上砂川線乗り場(1986.9.2)
正確には函館本線上砂川支線。その乗り場は砂川駅本線ホームから貧弱な跨線橋を挟み数10メートル先にあった。本線側から見た光景も特異だったし、乗り場に来てみると、特急が行き交う本線とは違い、まったりした独特の雰囲気に浸れるのだった。
湧網線サロマ湖車窓(1986.9.5)
かつて人気ローカル線のランキングを取ると湧網線は必ず上位に入っていた。サロマ湖が見える車窓を持っていたからだ。特に湖畔の際を走っていたのが写真のポイント。線内有人駅のファンサービスも良く、入場券を買うといろいろおまけが付いていた。
江差駅(1986.9.7) 
海岸沿いの街だけど全体が高台にあるため駅に停車する構図で写真を撮ると日本海を俯瞰する画となる。季節によってはさらに美しい夕日が見られていたのでは。この撮影ポイントは更地だったが、その後住宅地になっていると思われる。
燕三条駅(1986.9.8)
新幹線駅のすぐ目の前で稲刈りが見られた。上越新幹線が開業して4年近くも経ってこの状態。きっと当時は政治駅だのと揶揄されていたに違いない。さすがに10年、20年と経つと駅前開発が進んでいたようだ。
陸中大橋駅(1987.8.2)
花巻から釜石線で太平洋に抜けるルート、陸中大橋駅手前でこの駅を見下ろせるポイントがある。よくループ線と形容されることがあるが、むしろヘアピンカーブの線形。その割には結構高度差がある。
宗谷本線 利尻富士車窓(1989.5.2)
260キロもある宗谷本線も終点稚内が近づくと最大の絶景が待っている。日本海の向こうに利尻富士(利尻島)が見えてくる。宗谷本線で海が見えるのはこの辺りだけ? 話はそれるが、幌延から乗り換えた羽幌線からも利尻冨士が見えていた。
肥薩線 矢岳越え(1991.4.30)
肥薩線の矢岳~真幸間で見られる日本三大車窓の1つ。霧島連山と平野部(加久藤カルデラ)を一望。南北を結ぶ路線の列車から真横に見える車窓だが、実際に見ている方角はほぼ南。事前に線形と地形を認識していれば、さらに記憶に染みついていたことだろう。
野上電鉄 連絡口(1993.4.30)
電鉄の始発駅・日方はJR海南駅に隣接していたものの、駅を出て裏側に回らなければならなかった。そのため海南駅ホームから直接つながった「連絡口」という駅(日方駅の構内扱い)が設けられていた。両駅間は100メートルに満たず、写真でもわかるように互いの駅が見える。当時は海南駅高架工事中だったが、電鉄線など相手にされていなかったのでは。
糠平湖 士幌線跡1(1995.5.2)
渇水期の糠平湖の向こうに赤い不二川橋梁の鉄橋、手前には線路が。写真の右方向には糠平駅が位置し、線路は湖をぐるりと回っていたのだ。手前の線路は廃止に先立ち列車運行が休止になっていた区間。廃止8年後の姿を映した貴重な一枚は並行する国道から撮ったもの。鉄橋は後に撤去された。 
糠平湖 士幌線跡2(1995.5.2)
湖の北端のパーキングから見える第四音更川橋梁。鉄路があったことをこれほど強烈に主張していた遺構はない。最後の列車がここを渡ったのは1978年12月24日。撤去されるまで20年くらいは頑張っていただろうか。なお、見通しさえよければこの地点からタウシュベツ川橋梁も見ることができる。
深名線 朱鞠内湖車窓(1995.5.4)
深名線の北側、白樺駅跡付近に朱鞠内湖に接近する地点があった。ダム湖であるこの湖は季節により水位を変えるが、渇水期には異様な光景を見せていた。水没により枯れた木々が根元だけ残し、干上がった湖底平原に拡がっていた。まるで墓標のように。 路線廃止によりこの車窓は封印されてしまった。
鶯沢工業高校前駅(1997.5.1)
くりはら田園鉄道の終着の1つ手前に珍しい駅名を見つけた。駅名標が窮屈なくらい長い駅名。ひらがなで17文字。1980年代後半のテレビ番組で日本一長い駅名は「やながわ希望の森公園前」と紹介されていたが、それより一文字多いのに何故日本一でなかったかと思ったが、1995年に駅名改称されたものとのこと。
南部縦貫鉄道(1997.5.1)
鉄道廃止間近の野辺地駅。いつも単行で走っていたレールバスだが、この日はまさかの重連結。めったに見られない光景かもしれない。廃止を前に鉄道ファンが詰めかけたためだが、この事態に鉄道会社側は廃止から一転休止へと手続き変更。復活の機会を探ったがそれも叶わず、後に正式に廃止となった。
 名鉄・関駅(2005.2.6)
1999年、長良川鉄道と並行する名鉄・新関~美濃町間が廃止、代わって長良川鉄道とのアクセスを改善するため新関~関間が新規開業した。しかし美濃町線本体が2005年に廃止されることとなり、せっかく造ったこの連絡駅もたった6年で役目を終えることになった。
伯備線 大山車窓(2011.4.29)
 遠方の大山がきれいに見え、絶好のシャッターチャンスで捉えることができた。他に大山を見ることができるポイントはいくつもあるだろうが、なるべく人工物が目立たないよう映ることが望ましい。それが特急も走る幹線から見られるとは、この車窓も安泰だ。
大阪駅北(2016.6.19)
特急くろしおから見えた光景。日本を代表する駅の1つ、大阪駅の隣接地が更地に。元は貨物駅があってその再開発の途中なのだが、数年後にはこんな空間が広がっていたとは信じられないものとなるだろう。